恵みのしずく一覧

さあ、向こう岸へ渡ろう(マルコ4章より)」

1) 信仰の旅は、訓練の旅。イエス様は私達に「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われます。ですが、行き先を丁寧に説明してくれたりはしません。しかも行ってみれば、そこで嵐が起こり、挙句の果てには、イエス様は眠っておられるのではないかと思えてしまうような状況にもなるのです。でも、それは私達に対する訓練です。私達は、信仰の訓練を通して成長し、本物になります。昨年は、コロナ禍で大変な一年でしたが、コロナだからできなかったという部分に目を向けるのではなく、コロナだからこそできるようになったことを捜してその恵みに感謝しようではありませんか。私達は、試練を通して成長するのです。
2) イエスこそ主、救い主を知る旅私達は試練を通して成長しますが、そこで得られる最大の財産は「イエス様は救い主、神である」という告白(体験)です。当時はローマ皇帝を神とした皇帝崇拝が始まっていたので、彼らは命がけで「イエス様は主です」と告白しました。「さあ、向こう岸へ渡ろう」は、そのようなローマのクリスチャンに対するエールでもあったのです。神様は、肝心な時に眠ってしまわれるようなお方ではありません。心から信じる者に応えてくださるお方です。このお方と共に信仰の旅を続けましょう。

2023年06月30日

「ダビデとヨナタン(Ⅰサムエル20章より)」

1. 真の友人は裏切らない。

友人には2種類あると思います。1つ目は、放蕩息子の物語に出てくるような友人です。仕事や財産面で順調で潤っている時には、近寄って来て親しくしてくれますが、そうでなくなると途端にいなくなってしまう友人です。でも真の友人は違います。大変な時にこそ、友となってくれるのです。ヨナタンはダビデに対して無私の心で接しました。そこに友情の素晴らしさを感じます。イエス様こそ真の友人です。友(私)の為に命を捨て、十字架の愛を示してくれました。イエス様を見上げながら、真の友情(無私の関係)を築いて行きたいと思います。

2.真の友人は本当のこと(真実)を言う。

真の友人は、本当のことを話して(真実を教えて)くれます。裸の王様になりやすい私達にとって必要な存在です。「 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。~」(Ⅰヨハネ3:16)とあります。イエス様が私の為に十字架にかかってくださったのは、私を友としてくださっているからです。そして、真実な(愛のある)生き方を教えてくださるのです。裏切らないそして真実に接してくれる真の友人イエス様を心にお迎えし、歩んでいきましょう。

2021年02月19日

「悲しき勇者サムソン(士師記16章より)」

1悲しき勇者サムソン

 旧約聖書が語ること。 旧約聖書はありのままの人間の姿を描いています。そしてこのサムソンの物語も全く同じです。人間は同じ石につまずきます。それは自分の姿が見えていないからです。それこそが聖書で言う罪、的外れな人間の姿です。聖書は聖なる書物なのに、こんな人間の醜い姿が描かれていると思われるかもしれません。そうではなく、聖書だからこそ、そのような人間の姿を隠さずに表しているのです。私たちは、自分の的外れさをしっかりとみることができるものでありたいと思います。

2.悲しき勇者は真の勝利者となる

士師はそれぞれの場所で民を支えました。しかもどうして士師になれるのという様な欠点を持った人が用いられています。つまり私達も士師として用いられると言っているのではないでしょうか。最近有名人の自死のニュースがありました。どうしてと思えるような幸せな環境の方でも亡くなられています。やはりこのコロナ禍の中、相談相手の必要性を感じます。「あなたも行って同じようにしなさい」(ルカ10:37)、「Go To Your Friends(友達の所に出かけよう)」と私達に語り掛けているのではないでしょうか。主が共にいてくださる(インマヌエル)」という新約の恵みを運ぶ者となりたいものです。

2020年12月09日

「勝利の方程式(ヨシュア記6章より)」

1.持っている人には信念(信仰)がある。(人の目を基準にしない)

神様がエリコの城を陥落させる為の作戦はユニークなものでした。私たちの信仰も一見するとユニークに見えます。そしてそれ故に人の目が気になるものです。しかしその必要はありません。自信を持ってイエス様が主であることを告白しましょう。強く、雄々しくあることを神様はあなたに望んでおられます。

2.持っている人は信念(信仰)を貫く。(失敗しながらも学ぶ)

エリコの城は、最後の日には7週回りました。それは完全に神様に従う(信仰を貫く)という意味です。完全に従った時に城壁は崩れました。でも生まれたままの人間(私たち)は自己中心で、人の言うことを聞けない弱さを持っています。しかし幸いなことに、信仰者は失敗しながらも学ぶのです。「心を尽くして主に拠り頼め」(箴言3:5)とありますが、全力で主に拠り頼むことを学ぶのです。そのような歩みをする時に、ヨシュアのように「我と我が家は主の従う」(ヨシュア記24章15節)と告白する者へと変えられ、祝福の世界を体験することが出来るのです。

2020年10月29日

「礼拝について考えてみよう(申命記12章より)」

1.礼拝は、手放すことから始めよう

申命記では、礼拝を勝手気ままな場所ではなく、決められた場所でするようにと命じられていますが、どういう意味でしょうか。自分の都合を優先し、まるでアラジンと魔法のランプのお話のように、神様に自分の願いをお願いすることではなく、手放すこと、そして静まって主に聞くこと。それが礼拝だと語っているのではないでしょうか。一週間を振り返り、すべてのことを一旦手放し、神様を礼拝しましょう。

2.礼拝には、感謝をもって集まろう。

もし私たちの心に、自分に実力があったから、お金があったから、頼りになる会社があったから、私はよい一週間を過ごすことができたという思いがあったら、それは取り除かなくてはならない偶像です。ただただ主の恵みによって私は支えられた、そのような感謝をもって礼拝に集いましょう(詩篇100篇1節~5節)。そして、たとえ涙をもって始める一週間であっても喜びの束を携えて集える一週間になるはずだ(詩篇126篇5,6節)という信仰を持って出かけてゆこうではありませんか。

2020年10月01日
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